西郷隆盛に学ぶ会 (例会・資料−1-5) |
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西郷隆盛に関する年表 (社会的背景) (特筆事項) |
第122代・明治めいじ天皇 (在位期間 1867〜1912年)
1867(慶応 3年)(40歳) 1月9日、明治天皇践祚。 1月22日、薩摩、越前、土佐、宇和島藩の「四侯会同案」を藩議にかけるため、小松と共に京都発。 2月13日、土佐・宇和島に使節を命じられて鹿児島出帆。 2月16日、高知着。 2月27日、鹿児島着。久光に復命。 3月10日、村田新八、中岡慎太郎らを派遣し、大村、平戸ほか九州諸藩に遊説させる。 3月25日、久光に従い、兵700人を率いて藩船三邦丸で鹿児島発。 4月2日、大坂着。 4月12日、上洛。 5月10日、四侯会議を薩摩藩邸で開く。 5月12日、四侯会議を土佐藩邸で開く。 5月19日、中岡慎太郎、品川弥二郎が来訪。 5月26日、中岡慎太郎、板垣退助が来訪。
中岡慎太郎・板垣退助らと王政復古を計る。 5月28日、小松邸で柴山良助、大久保利通らと会談。 6月15日、山県有朋を訪ね討幕の決心を告げる。 6月16日、久光、山県を引見し、薩長連合の密旨を毛利敬親に伝えるよう頼む。 6月22日、小松・大久保・中岡・後藤象二郎らと王政復古を盟約する。 7月7日、村田新八を長州に遣わし、土佐藩との盟約を打診。27日サトーと会う。 9月7日、後藤と会い、土佐藩の大政奉還建白書提出論を聞く。 10月13日、薩藩に、14日、長州藩に討幕・討会津・桑名の密勅が下る。大久保・小松・広沢・品川 10月17日、大久保・小松・広沢らと共に京都発。 10月22日、山口着。小松と共に毛利敬親父子に謁し、討幕の密勅を呈し上洛出兵を促す。 10月26日、帰国して久光・忠義に討幕の密勅を呈し、上洛出兵を促す。 10月、土佐藩、大政奉還建白。 11月13日、藩主 忠義を奉じ、兵を率いて鹿児島発。 11月17日、三田尻着。 11月18日、毛利内匠らと会合し、薩・長・安芸三藩兵出兵の手順を決める。 11月24日、徳川氏処分案をつくる。 12月6日、岩倉具視・伊地知正治・岩下・吉井らと大久保邸で会合し、王政復古のクーデターを9日に 12月8日、徳川慶喜、大政奉還・幕府滅亡。 12月9日、薩摩・安芸・尾張・越前四藩の藩兵に出動命令を出す。会津・桑名兵退却。土佐藩兵も出動。 12月12日、参与職に任命さる。
1868(明治 元年)(41歳) 1月1日、江戸薩摩屋敷焼打ちの報を受ける。 1月2日、大久保・岩下と王政復古に関する外国布告案作成。大坂の幕府軍の動きを知り、鳥羽・伏見 1月3日、旧幕軍、大坂より大挙北上。鳥羽・伏見にて迎撃。午後、勝報を聞いて伏見の戦線を視察 1月4、5日、官軍を指揮、勝利を得る。 1月7日、征討令発布の会議に出席。 1月17日、海陸軍掛、及び徴士に任命される。 1月18日、藩主に願って徴士を辞す。 2月1日、大久保と征討策を練る。 2月12日、薩藩東海道先鋒軍を指揮して京都発。 2月14日、東征大総督府下参謀に任命さる。 2月25日、東海道先鋒軍の各藩隊長を静岡に集め、江戸進軍の命を伝える。 3月6日、東海・東山両軍に、15日を以て江戸城を総攻撃することを命ず。 3月9日、勝海舟の書状を持って静岡に来た山岡鉄舟と会う。山岡に徳川処分案7条件を手渡す。 3月11日、江戸郊外着。 3月13日、江戸高輪の薩摩藩邸で勝海舟と会う。 3月14日、田町の藩邸近くの旅館で西郷隆盛、勝海舟と会い、徳川方の対案を受領。明日の江戸城 3月16日、静岡着。大総督府と協議。静岡発。 3月19日、京都着。 3月20日、京都で政府首脳と勝の案を協議。 3月22日、京都発。 3月29日、江戸着。 ※ 江戸無血開城。 4月4日、江戸城入城。 4月28日、江戸発。 閏4月6日、大久保らと岩倉邸で会合し、徳川の封土と関東鎮撫の策をねる。 閏4月11日、三条実美と共に京都発。 閏4月23日、江戸着。 5月15日、黒門口の薩摩軍を指揮し、上野の彰義隊を撃破する。 5月29日、江戸発。 6月5日、京都着。島津忠義の関東出陣をやめさせる。 6月9日、忠義と共に募兵のため帰国。 8月6日、東北地方鎮定に三隊を率いて鹿児島出帆。 8月11日、新潟着。弟吉二郎戦死を知る。 8月14日、米沢に進駐。 8月27日、庄内(鶴岡)に進駐寛大な戦後処理をする。 8月29日、庄内発。 9月、明治と改元。 10月中旬、京都着。太刀料三百両を下賜さる。 10月23日、薩摩軍の諸施設・人員を整理して、京都発。 11月初旬、鹿児島凱旋。日当山温泉で静養する。 ※ 神仏分離令(1868)→廃仏毀釈運動
1869(明治 2年)(42歳) ※ 西郷は坊主頭になり、すでに世を棄てた気分? (伊地知正治から大久保利通に宛てた手紙) 1月、藩の役職辞任。 1月18日、政府への出仕を求められたが辞す。 2月23日、忠義が村田新八を伴って日当山まで来て、藩政への参加を求む。 2月24日、忠義に従い鹿児島に帰る。 2月25日、藩の参政・一代寄合となる。 3月、東京遷都 5月、函館の榎本軍討伐増援のため、独断で精兵を率いて鹿児島発。 5月25日、函館着。戦いは終わっていたので、直ちに引返す。 6月1日、東京着。 6月2日、維新の功により、永世二千石の賞典禄を受ける。(木戸・大久保・広沢真臣は1800石、 6月、版籍奉還 6月14日、公卿の称を廃し華族と称す。(行政官達) 6月25日、東京発。帰途に着く。 9月26日、正三位に叙せられ、辞退したが許されず。この頃から、父隆盛の名が誤用される。 12月2日、大夫士以下の称を廃し士族および卒と称し、禄制を定める。(太政官布告)
1870(明治 3年)(43歳) 1月18日、参政を辞し相談役となる。一世養俸150俵を受ける。 2月6日、山口の兵隊反乱を視察のため、桐野・村田らと共に鹿児島発。 2月12日、山口着。反乱は鎮定されていたので帰途に着く。 2月17日、鹿児島着。 3月、三男午次郎誕生。 5月、 正三位の位返上許さる。 10月、従道、帰国して兄・隆盛の上京出仕を促す。 12月20日、大久保と会見し、上京出仕を決める。 12月25日、勅使・岩倉、久光と西郷の出仕を促す。久光、西郷の出仕を許す。
1871(明治 4年)(44歳) ※ 日清修好条約締結 1月3日、鹿児島発。 1月7日、山口着。 1月8日、山口の木戸と会い、出仕を誘う。 1月13日、大久保・木戸らと共に山口発。 1月17日、高知着。 1月21日、板垣らと共に高知発。 2月2日、東京着。 2月8日、 御親兵の制をはかる。 2月15日、東京発。親兵徴集のため帰国の途に着く。 2月25日、鹿児島着。 3月下旬、忠義に従い、常備四大隊を率いて鹿児島発。 4月21日、東京着。 5月、 正三位の位返上許さる。 6月25日、木戸と共に正三位・参議になる。以後、宮中や各省の大改革を断行。 7月、大久保・木戸らと廃藩置県の実施をはかる。 7月14日、廃藩置県断行。(開拓使をおいた北海道を除いて12月には3府72県に整理。) 8月9日、 斬髪・脱刀令を出す。 8月28日、穢多・非人の称を廃止。平民に苗字を許す。(太政官布告) 11月10日、岩倉具視・大久保・木戸ら欧米へ出発、留守政府を預かる。
1872(明治 5年)(45歳) 2月、兵部省を廃し、陸海軍両省を設置。3月・ 御親兵を近衛兵にする。 6月22日、鹿児島着。 7月2日、鹿児島発。 7月5日、山城屋事件のため急ぎ東京着。 7月20日、参議、兼陸軍元帥、兼近衛都督となる。 8月、学制発布。 ※ 別府晋介を朝鮮に、池上四郎を満州に遣わし、政情を調査させる。 11月、 久光は、14か条を掲げて西郷を非難。西郷、休暇をとり帰鹿して久光に詫び状を出す。 11月、太陽暦を採用。 ※ 田畑永代売買の禁を解く。 ※ 全国民の戸籍作製(明治4年の戸籍編成法による。)壬申戸籍。 ※ 新橋〜横浜間、鉄道開通。
1873(明治 6年)(46歳) 1月、徴兵令を布告 4月5日、東京帰任。 5月10日、徴兵令による陸軍大将兼参議に任ぜられる。 6月、 病気となり、天皇は侍医とドイツ人医師ホフマンを遣わす。 6月12日、朝鮮問題、閣議に上る。出兵に反対し、使節派遣を主張。自ら使節となることを願う。 7月、地租改正令。 8月17日、閣議で西郷の朝鮮使節派遣決定。 8月19日、天皇に上奏。 10月14日、岩倉・大久保らを加えて閣議を開く。意見対立。 10月17日、閣議を開くが岩倉欠席。大久保らも辞表提出して欠席。三条実美発病。 10月23日、すべての官位官職の辞表を出し、東京郊外に移る。辞表は受理されたが、正三位と 10月、征韓論破れ西郷隆盛、副島種臣、板垣退助、江藤新平ら各参議下野。 10月28日、東京発。 11月10日、帰郷し、武村に住む。 11月、内務省設置 12月、山川の鰻温泉で寛ぐ。四男酉三誕生。
1874(明治 7年)(47歳) 2月、佐賀の乱(江藤新平) 2月、久光が佐賀の乱の鎮定を命じたが断る。 3月1日、江藤新平が山川の鰻温泉に来て、援助を請う。 4月、従道に頼まれ、台湾出兵に鹿児島兵800人を参加させる。 6月、私学校本校と砲隊学校を設立。 10月、大山巌帰鹿して、政府への復帰を願う。
1875(明治 8年)(48歳) 4月、鹿児島郊外の吉野に開墾社設立。同月、大山巌のヨーロッパ行きの誘いを断る。 5月、三条実美、使者をつかわし再出仕を要請するが断る。 5月、ロシアと樺太・千島交換条約調印
1876(明治 9年)(49歳) 3月、 下野した久光の使者が来て、上京を促すが断る。 10月、萩の乱(前原一誠) 11月、萩の乱・神風連の乱を知るが動かず。 12月、大山巌、帰国して西郷の政府への復帰を説くが断る。 ※ この年、私学校生徒2名をフランスに留学させる。 1877(明治10年)(50歳) 2月2日、西南戦争起こる。 根占で、私学校徒の火薬庫襲撃事件を知り鹿児島に帰る。 2月12日、 帰郷後はじめて「陸軍大将」という正規の資格で、公式文書で、政府の非行を 2月17日、 兵と共に熊本へ出発。 2月22日、 熊本城攻撃。 2月25日、 官位を剥奪される。 3月、田原坂の戦い。 4月、人吉に退く。 5月、宮崎に退く。 8月、長井村で包囲され、陸軍大将服を焼く。可愛岳越えで囲みを破る。 9月1日、 転戦、敗退の末、鹿児島に帰る。 9月24日 政府軍総攻撃。城山の岩崎谷で銃弾に当たり、別府晋介の介錯で自決する。 1878(明治11年)
1880(明治13年)
1881(明治14年)
1882(明治15年)(死後5年)
1883(明治16年)
1884(明治17年)
1885(明治18年)
1886(明治19年)
1887(明治20年)(死後10年)
1888(明治21年)
1889(明治22年)(死後12年) 2月11日、憲法発布による大赦で赦ゆるされ、正三位を追贈される。
1890(明治23年)
1891(明治24年)
1892(明治25年)(死後15年)
1893(明治26年)
1894(明治27年)
1895(明治28年)
1896(明治29年)
1897(明治30年)(死後20年)
1898(明治31年)
1899(明治32年)
1900(明治33年)
1901(明治34年)
1902(明治35年)(死後25年)
1903(明治36年)
1904(明治37年)
1905(明治38年)
1906(明治39年)
1907(明治40年)(死後30年)
1908(明治41年)
1909(明治42年)
1910(明治43年)
1911(明治44年)
1912(明治45年)(死後35年) |
ただ今、資料の整理中につき後ほど再訪のほどお願い致します。(2005年12月現在) |
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